世界を救う哲学だ! 日本の侘び寂びに対する海外の反応

日本の侘び寂びを英語で解説した動画がありましたので、その内容とコメントの一部を翻訳してご紹介いたします。

(以下動画の大意)

西洋では「完璧」や「対称性」が美の基準だ。

一方、日本は違う。

日本の場合、美意識の中核にあるのは「侘び寂び」だ。

それは「不完全の美」である。

侘び寂びは、若さやパワーへの礼賛ではなく滅び行くものへの愛着から来る思いだ。甘い憂鬱ともいうべきものだ。

侘び寂びは仏教の教えとも結びついている。仏教では無常や不完全さといったこの世の不条理と折り合いをつけることを重視している。

侘び寂びの根底にあるのは禅の思想である。

侘びはもともと惨めさ、寂しさなどの否定的な意味をもつ言葉だったが、いつしかそこにある人生の味わい深さを意味する肯定的な言葉へと変わっていった。

寂びももともと孤独や枯れるといった否定的な言葉だったが、やがて年輪を重ねることへの尊崇や不完全さの美を意味する言葉となった。

たとえば修繕した跡のある古い器が醸し出す美しさは寂びといわれる。

村田珠光は、侘び寂びを体系づけるとともに茶の湯を大成させた。

彼は当時華美に流れていた茶の湯を本来の侘び寂びの精神に戻した。

珠光の跡を継いだのは千利休である。村田珠光と千利休は日本の茶道の開祖として今も崇められている。

千利休にはこんなエピソードがある。

ある日、若い弟子が利休の茶室と庭を掃除した。庭は落ち葉ひとつないほどきれいに掃き清められたが、それを見た利休は枝を揺らして紅葉を何枚か庭に落とした。

侘び寂びのもう一人の巨匠は松尾芭蕉だ。彼は諸国を行脚しながら侘び寂びを体得し、俳句を大成させた。

しかし、いま侘び寂びは他の日本文化と同様、消滅の危機にある。

脅威となっているのは西洋由来の消費至上主義だ。

侘び寂びはひとつの人生哲学である。それは新しいものがもてはやされるこの世界で、古いものにも深い味わいがあることに気づかせてくれる。

侘び寂びは、今より少しだけ謙虚になることで世界の光景が一変することを私たちに教えている。

 

(以下コメント)

●俺の部屋は侘び寂びだ

●不完全の美。わたしたちが子供を、もしくは大人であっても互いに愛しあう理由もそこにある。完全へと努力する姿とちょっとした間違いがわたしたちに人間らしさを与えてくれる。

●魂は完全だ。

●俺の股間はいまや侘び寂びなんだが‥。

●「ワサビ」に関する動画だと思って来たんだけど‥。こりゃまた失礼!

●侘び寂びってのはつまり皿を洗わず放置していてもオーケーってことか?

●私にとって侘び寂びというのは悲しみ、失望、懐かしさ、そして美などが渾然となったものだ。とくに桜の花びらが散るのをみると侘び寂びを感じる。それは自分も含めすべてのものは滅びゆくという感情だ。我々はこの世界を流れのままに生きる漂流者のようなものだ。人生の苦しみや悲しみを受け入れるプロセスがいわゆる「粋」というものだと思う。

●侘び寂びは古代日本のポップカルチャーだよ。

●世俗的な欲望に振り回されるなってことだろ。

●西洋ではそういうのを「Shabby」(ボロっちい)と言っている。

●フクシマのメルトダウンは「甘い憂鬱」として賞賛すべきだな。

●動画の中に出てくるアニメはあんまり侘び寂びっぽくないぞ。

●侘び寂びが西洋思想によって消滅の危機にあるという主張は馬鹿げている。問題はどんな生き方を選ぶかであって、それは本人の価値観次第だろ。

●シャビーシックのことだろ(笑)
※訳者注:古ぼけた家具を使う近年流行のインテリアデザインのことをそう言うそうです。

●こんなコンセプトはこれまで聞いたことがなかった。でも面白い! これはしばらくはまりそうだよ。

●侘び寂びというのは東洋ではある程度普遍的な概念なんじゃないかな。もしそれに近いものを西洋で探すとしたらいわゆるロマン主義がそれにあたるように思う。

●これは表面的にすぎる解釈だ。西洋人にも理解しやすいことを優先した結果そうなったのかもしれないけどね。

●利休はポップスターの元祖だ。

●洗いざらしのジーンズを見ればわかるように西洋にも似たような感性があるよ。

●たしかに今日の資本主義と消費主義を見ているとこの世界の前途には暗澹とせざるをえない。

●発音がちょっとぎこちないけど、まあうまく説明していると思うよ。

●神道は古いものを嫌い、新しいものを尊ぶぞ。だから中古の自転車などは日本ではあまり売れない。

●ということはなにかい? 西洋の美学は存在価値がないとでも? 黄金比率は無意味だと? 西洋人は不完全な美を理解できないとでも? 侘び寂びはたしかにいいものかもしれない。だけど西洋の美学を全面否定するというのはいかがなものかね。

いや別に否定しているわけじゃないよ。たんにもうひとつの考え方もあると言っているだけだ。

●これは西洋人がバラを好み、日本人が桜を好むようなものだ。西洋では愛はしばしばバラにたとえられる。バラは枯れても花びらは散らずにそのまま残る。それは生命に執着しているかのようにも見える。西洋の結婚式もそれと似ている。西洋の結婚式で重要なのは指輪の交換だ。すなわち約束だ。しかし東洋の結婚式にはそのようなものはない。東洋ではすべては桜のようなものだ。それはほんのつかの間美しく咲き誇ったかと思うとすぐに散ってしまう。この世界は無常だ。すべて移り変わる。私たちは、移り行くものに過剰にとらわれることはないーー。これはアジア人として生きて来た私が育んできたこの世界に対する理解の仕方だ。

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